永禄元年
〜8年 |
引間(浜松)城主、飯尾豊前守と奥方、お田鶴の方(椿姫観音)の御仲に長子、義廣公が生まれる。
入野村に住む佐橋甚五郎なる者が、引間城近くより、城の上空に向かって義廣公名入りの大凧を揚げ、御誕生を奉祝したことにはじまる。
これに刺激されて城下町の若者達も大勢引間城に向かって大凧をたくさん揚げて祝福した。 |
永禄11年
(1568)
桃山時代
戦国末期 |
今川家武将、飯尾豊前守亡きあと、奥方お田鶴の方(引間城第5代城主椿姫観音)は12月24日家康との戦いに敗れ、侍女18名と共に、哀れ討死し引間城は落城した。 |
元亀元年
(1570) |
家康公の居城となった引間城は、浜松城と改名した。 |
元亀3年
(1572) |
5月、家康公の家臣、松平頼母なる者が、端午の節句に主君の御曹司、結城秀康公の客臣を招き浜松城の大手門前において源五郎凧を揚げ一同に御披露した。 |
天正14年
(1586) |
12月、家康公は豊臣秀吉公の命により、駿府城に転封された。
浜松城居城中の17年間とその前後5〜6年は、浜松の凧揚げは、中止されていた。 |
天正18年
(1590) |
浜松城第2城主、堀尾帯刀吉晴公が任ぜられた在職11年の間、浜松城下町に凧揚げ再興の機運が高まってきたので、城内は申すまでもなく、城下町の民衆に向かっても、城主自ら凧揚げを慫慂し、よってふたたび初凧(凧揚げ)が復興した。 |
享保12年
(1727)
江戸時代
中期 |
三河国の吉田城主(現豊橋)松平伊豆守配下の吉田組と遠江国の浜松城主松平豊後守配下の浜松組の凧合戦が徳川家ゆかりの地、三方原古戦場跡において、吉田組・浜松組の双方、負けず劣らず凧合戦の妙技を披露したとある。 |
明治7年
(1874) |
凧揚げも、大火災や戦争の為に、度々中止されていた。
4月27日、伝馬町から出火。南西の風にあおられ、伝馬・連尺神明・鍛治・肴・板屋・田町等の各町は全焼、新・池・旅籠町の過半は焼失し凧揚げどころではなかったが、一面には、元・元城松城・元目・栄千歳町などでは、従来の伝統を活かし間もなく凧を揚げた。 |
明治22年
(1889) |
町制が布かれた頃から、凧も復興のきざしが見えて、あちこちで天高く乱舞する大凧が見受けられるようになった。 |
明治30年
(1897) |
浜松の凧のよさや、特色のある図柄が話題となり、凧を揚げている各町では、町意識が強くなり、なるべく毎年同じ凧印を揚げるようになった。 |
明治41年
(1908) |
寺島町一体が炭殻で埋め立てられ、国鉄の機関車建設用地となり大きな広場ができ、誰が言うともなく自然に各方面から凧を持ってきて揚げ始め、そして糸がからめば凧合戦が盛んに始まるという状態であった。
思い思いに行動していたのを、関係者の努力によって一か所に終結して盛大な凧合戦が、初めて行われるようになった。 |
大正2年 |
諒闇中にて、凧揚げは中止。 |
大正3年 |
御大典を盛大に執行して、凧揚げ祭りは参加各組とも中止。 |
大正4年 |
中止されていた後の盛り上がりが大きく、各組は早くから準備と参加を発表した。
もうひとつの盛り上がりの理由として、大正元年に国鉄工場が創業したため、凧揚げ会場も和地山町、陸軍歩兵第67連隊の練兵場に一本化され、使用許可も5月1日より5日間、軍よりだされたことで、以降毎年凧揚げが催されるようになった。 |
大正5年 |
この頃から、凧揚げ祭りの参加町に、次々と底抜け屋台が作られるようになって、これまでは、昼は凧合戦、夜は練りだけだったのが、屋台のある町内では、夕方より屋台が引き回されるようになった。 |
昭和2年 |
諒闇中にて、凧揚げは中止。 |
昭和3年 |
御大典を盛大に執行して、凧揚げ祭りは参加各組とも中止。 |
昭和4年 |
野口町・八幡町に一重屋根で彫刻入りの本格的な屋台(掛塚型)が初めて製作され、その代金は600余円であった。 |
昭和10年 |
この頃を中心にわずか5,6年間に浜松を代表するような豪華な屋台が30台近くも新造され、夜のお祭りを一層豪華なものに盛り上げ、その名声は全国に知れ渡ることとなった。 |
昭和12年 |
大東亜戦争に突入。 |
昭和20年 |
4月と6月に浜松市は、敵機による大空襲や7月の艦砲射撃などの戦火によって、市の中心街の大部分が焼失され、多くの生命や家財、凧揚げの記録や道具、屋台のほとんどを焼失した。 |
昭和22年 |
凧揚げ祭り再開希望の市民の声が実を結び、戦後初めての凧揚げが浜松師範学校グランドにおいて、10年ぶりに催された。 |
昭和23年 |
凧揚げ会場を、練兵場より、中田島砂丘東寄で行った。 |
昭和25年 |
浜松凧揚げ祭りは「浜松祭り」と改称した。
凧揚げは、中田島会場より再び和地山公園広場で行った。 |
昭和29年 |
浜松祭りの主体性を浜松市観光協会に移した。 |
昭和33年 |
天神町の御殿屋台が、完成 |
昭和38年 |
浜松祭りに参加する町の自治会長の会議が、初めて開催された。
5日間だった浜松祭りが、5月3日〜5日の3日間となった。 |
昭和42年 |
和地山会場が狭いことと、途中交通事情により、中田島砂丘西側を沢山の土を入れて埋め立てて、会場とした。 |
昭和45年 |
浜松市連合会凧揚げ本部の名は消え、浜松祭り凧揚げ部と呼名した。 |
昭和50年 |
希望町内の子供連の凧揚合戦を行うようになった。 |